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じっちゃん

Author:じっちゃん
翻訳家。
もとコンピュータ技術者。二足の草鞋で翻訳を始め、定年後フリーランサーに。
【趣味】
①読書:ミステリを中心に時代・歴史小説、歴史や科学などのノンフィクション
②四国遍路(2015年11月結願)
③街道歩き(現在敢行中)
④SNS(ブログ、Facebook、Line)
⑤観劇
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一時休業継続中

当ブログはただいま一時休業中です。 (再開の日は来るのだろうか?!)
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一時休業のお知らせ

Facebook(やLine)での活動が中心となり、当ブログへ書きこむことはほとんどなくなっているため、当面のあいだ当ブログは休業いたします。

なお、Facebookでは、本名のほかに筆名の「関岡孝平」でも登録しておりますので、「関岡孝平」で検索していただければ、私を発見できると思います。

鴎外の母に脱帽~『日本文壇史』(第3巻)より



伊藤整の『日本文壇史』を読んでいる。明治大正期の日本文壇の歴史を描くもので、全23巻という大著だ。

現在第3巻の途中、明治29年(1896年)の初夏に差し掛かったところ。鴎外は評論と翻訳ですでに名を成し(小説はまだ書いていない)、漱石はデビュー前。鴎外、紅葉、露伴が文壇の大家となっており、逍遥はもはや舞台から消え、四迷は『浮雲』で華々しくデビューした後潜伏し、透谷はすでに命を絶っている。一葉が『たけくらべ』等で大評判を取ったばかりだが、すでに病を得ている。子規も俳句で名を成しているが、肺病を得て寝込む寸前。鏡花、独歩、花袋はまだまだ駆け出し、藤村のデビューはこれからだ。

現代日本文学の黎明期を舞台にした青春群像劇のようで(実際そうだ)実に面白く、登場人物の苦悩や喜び、怒りが生き生きと伝わってきて胸が熱くなる。伊藤整の筆致はほとんど感情を交えず、事実を淡々と述べているだけのような客観的で冷めたスタイルだが、内容が熱いだけに、かえってそれが心地よい。

前置きが長くなってしまった。実はこの記事を書いた動機は、第3巻に乗っていた森鴎外の母親のエピソードに感動し、そのことを書きたかったからだ。

森鴎外(本名林太郎)が幼い頃、父の静男は医者修行中で、家にほとんどいなかった。そのこともあって、林太郎の教育は母親の峰子の手に委ねられた。ところが峰子は教育を受けておらず、天才肌の息子を教えるため、彼女は徹夜してまで勉強し、文字を覚え、さらには漢籍まで読めるようになった。後には鴎外の作品に意見を言ったり、校正やふりがなつけをするまでになったと言う。
天才鴎外の陰にこの母あり。昨晩このくだりを読んでいて頭にガツンと食らった気がした。人生いくつになっても勉強である。自分も負けてはいられない。

そうそう、この名作がいまは絶版で、中古でしか手に入らない。ちょっと残念である。

六十肩完治す

2014年10月に突如私を襲った右腕痛(六十肩?)については、これまで何度か経過報告をしてまいりました(1回目2回目3回目4回目5回目)。が、今回が最後のご報告になります。

実は昨日、めでたくもかしこくも、1年半の苦闘の末に右腕痛が完治したのであります。

最初は少し上に上げるだけで激痛が走った右腕でしたが、サーノ博士のTMS理論によった治療方法(わざと腕を痛めつける)という荒療治を続けた結果、やがて(数カ月後?)激痛が走ることはなくなり、日常生活に大きく差し支えない程度には回復しました。その後も少しずつ少しずつ症状は改善していったのですが、それでも腕を上へ上げたときに筋肉が突っ張るような痛みは最後まで残りました。それをいちばん感じるのが、お風呂に入って寝間着に着かえるときでした。

ところが昨晩、お風呂を出てシャツを着ようと腕を突っ張ったときに、なんと何の違和感も感じなかったのです(ビックラポン)。

万歳であります\(^o^)/、ブラボーであります。やっぱりサーノ博士は正しかった。TMS理論は正しかった。信じて続けてよかった。でも、1年半もかかったのは、ちと想定外。

しかし、何はともあれ、めでたし、めでたし。
.☆.+:^ヽ(∇ ̄*)o♪Congratulations♪o(* ̄∇)ノ^;+.☆. 

資本主義経済の将来について考えさせられた~『入門経済思想史 世俗の思想家たち』



 以前から経済学には関心があってけっこういろいろ読んでいる。しかし、経済学の発展の歴史についてまとまったものを読んだのは今回が初めてである。

 本書はアダム・スミス、リカード、マルクス、ヴェブレン、ケインズ、シュンペンタ―といった偉大な経済学者の小伝とその理論、その背景にある時代の状況をコンパクトにまとめたものである。コンパクトと言っても文庫本で500ページ以上あるが、著者の語り口が巧みなせいで、最初から最後まで(一応)飽きることなく読み通すことができた。

 今一応と書いたのにはわけがあって、アダム・スミスからマルクスまでは話もよくわかり面白く(いささか興奮状態で)読めたのだがが、それ以降ケインズ、シュンペンタ―のあたりは少しだけしんどくなってしまったのだ。理論が難しくなったこともあるが、それに加えて、作者が面白く読ませようとするあまり、レトリックやストーリーの組み立てを工夫しすぎて、ストレートに話せばわかりやすいものをかえってややこしくしてしまっている嫌いもある。

 この本を読むと経済学の歴史は、資本主義経済(=市場経済)の出現とともに始まり、発展したことがよくわかる。

 その資本主義経済の破たんと共産主義経済の出現を予言したのはマルクスだが、今のところ彼の予言は外れた形になっているが、完全に無効になったわけではない。

 近代経済学は景気循環が起こるメカニズムを解明しようと躍起になってきたが、いまだに好不況の波が激しいことを見ると、まだ答えを見つけ出せないでいることは明白である。全員が全員好況を望んでいると言っていい状況でなぜ不況が発生してしまうのか? それすらわかっていないのだ。それに、そもそも資本主義経済には安定均衡というものがなく、際限なく成長し続けなければならない(その理由について本書に一応の答えが用意されている)。今は技術革新があるからいいが、それがいつまで続くかもわからない。

 景気循環のメカニズムを解明できないうちに、その波が悪いほうに大きく振れて資本主義経済が破たんするということだってないともかぎらないのだ。

・・・とまあ、最後はそんなこと考えてしまった。

 なお、本書はケインズ以降はシュンペンタ―を取りあげているだけで、ケインズ以降の現代経済学については多く触れられていない。そこに若干の物足りなさを感じた。

英米文学翻訳者必須の知識に挑む~『はじめて読む聖書』



 英米文学には聖書の引用や、聖書の話を下敷きにしたエピソードが頻出する。英米文学を読んでいて、聖書の話が一度も出てこなかったら、かえって珍しいくらいである。となると、英米文学を翻訳するものにとって聖書の知識は必須と言ってよい。

 私も英米文学(※)の翻訳者の端くれとして、聖書の勉強はそれなりにしている。しかし、まだまだ知識不足だと感じているし、それよりも何よりも、最近聖書という稀有な書物に対する知的好奇心が抑えきれないくらい高まってきていて、聖書関連の本をかなり読みはじめている。

※ と言っても、自己啓発書を中心とするノンフィクションだが。

 その一環として手に取ったのがこの本。

 タイトルからして聖書の入門書的なものを期待していたのだが、読んでみてちょっと肩透かしをくらった。冒頭の「聖書ってどんな本?」と最後の「聖書を読むための本」こそ入門書っぽいものの、その間に来る7編は入門書を意図した記述と言うより、聖書をテーマにしたエッセー集(プラス対談)の感。

 冒頭の「聖書ってどんな本?」も、聖書を紹介するには15ページと短すぎるし、そのうちの訳半分を聖書和訳の歴史に当てているのもバランスが悪い。最後の「聖書を読むための本」で紹介される参考文献も聖書入門者には高級すぎてついていけない。

 かくして聖書入門書としては期待はずれだが、エッセー集としては、池澤夏樹や橋下治、吉本隆明など豪華執筆陣がそれぞれの聖書観を語ってくれて、面白く読める。

 何と言っても白眉は、新約聖書学者としてつとに有名な田川健三氏の対談。約70ページと本書のほぼ3分の1を占めることからも、これが本書の中心であることがわかる。

 田川氏はれっきとしたクリスチャンだが「神は存在しない」と言い切ってしまう人で(この対談のなかでもそう言っている)、日本のキリスト教界では異端の存在。だから、日本の神学会では身の置きどころがなく、ドイツのゲッティンゲン大学、アフリカのザイール国立大学、フランスのストラスブール大学などで教鞭を取ったという経歴の持ち主(※)。


※ 一時期国際基督教大学で教鞭を取っていたが、その思想がわざわいして追放されてしまう。その経緯もここに書かれている。


 しかし、田川氏が「神はいない」と主張する論拠は(キリスト教徒でない者には)しごく真っ当に思える。田川氏の主張は「神はいない」というよりも、「(聖書が描くような)人間が作りあげた神はいない」というものである。人間がイメージできるくらいならそれは神ではないと言っているのである。では「神」はいるのか、いないのか? 田川氏は「それはわからない」と言う。いるかもしれないし、いないかもしれない。だから、田川氏は無神論者と言うよりも不可知論者と言ったほうがよい(ご本人もそうおっしゃっている)。

 これを含め、この対談は括目すべき内容に満ちていてスリリングである。たとえば。

 田川氏がザイール国立大学で教鞭を取っていたとき、授業であのシュヴァイツァーに言及したとたん、学生たちから「帝国主義者!」という声(ブーイング)があがったという。シュヴァイツァーはアフリカに病院を作って多くのアフリカ人を救ったということでノーベル平和賞をもらっているが、実は非常に人種差別主義者であり、アフリカの人を見下した言動が多かったという。そればかりでなく、患者を使った人体実験まがいの手術も数多く行った。それを現地の人は今でも恨みに思っていて、反発するのである。

 田川氏の宗教と向かいあう姿勢はきわめて真摯である。建前を捨てて本音でキリスト教にぶつかるからこそ、信仰ありきで聖書を研究する旧来の学者から見れば煙たい存在なのだろう。

 田川氏には前から注目していたが、この対談を読んでますます興味を持った。氏には、信者とそうでない者を問わず、新約聖書に関心ある者を対象とした解説書『書物としての新約聖書』、真のキリスト像を描いたとして(いろいろな意味で)話題になった『イエスという男』という著書がある。いずれも大部なのでいっぺんには読めないが、手に入れて読んでみようと思う。

さんざんな誕生日


今日はわが家のわんこ・クロ丸の8歳の誕生日。誕生日だというのに、昨夕の散歩中ちょっとしたことから右後ろ脚を痛め、びっこを引くようになってしまったので、今日は朝から病院。

レントゲン写真を撮るなどして診てもらった結果、膝蓋骨内方脱臼との診断。何でも、起きて立ち上がろうとした瞬間に発生することもあるくらいで、ちょっとしたことがきっかけで起きることもあるとのこと。昨夕も脱臼するような激しい事故は起こしていないのでナルホドと思う。

とりあえず痛み止めの注射をしてもらい、一週間ほど薬を飲ませて様子をみることになった。その間お散歩もお休み。

太り過ぎなのも原因のひとつだそうで(見た目は痩せているが、体重は理想より数百グラムオーバーとのこと)、並行してダイエットも行うことなった。

散歩の時間になると、本人は右脚をケンケンしながらやって来て、いつものように散歩を催促する(写真)。とても不憫で切なくなるが、心を鬼にして「今日は行けないの」と告げる。

大好きな散歩もできないうえに、この後の食事も減らされることになる。クロ丸にとっては散々な誕生日となってしまった(^▽^;)

ともかくも次の診察までにはよくなっていることを祈るのみ。

般若心経がなんと絵本に!~『般若心経絵本』



 昨年めでたく結願した四国遍路では各札所で般若心経を2回ずつ詠む。必然的に般若心経に関心を持つようになった。

 キリスト教やイスラム教の信者でもなく、ただそれらの解説本を読んだだけのぼくがこう言うのもなんだが、三大宗教のなかで仏教がいちばん奥深いように思う。少なくとも、教えを最も徹底して深いところまで掘り下げているのが仏教だと思う。

 その奥深い仏教の教えの神髄を262文字に凝縮したのが般若心経だと言われるだけあって、ごく短い経文なのにとても深遠で(と僕は感じる)、とても難しい。何度詠んでもわかったようなわからないような気になる。

 だから自然の流れとして解説本をひもとくことになる。これまでにいろいろな著者の解説本を読んだ。松原泰道・哲明親子のもの、仏教僧にして芥川賞作家の玄侑宗久のもの、瀬戸内寂聴のもの、学研のBooks Esotericaシリーズの一書など。

  しかし、どれを読んでも、どうもしっくりこないし、「ああそうなのか」と膝を打つ瞬間がこない。解説本何冊か読んでいるうちにその理由がわかった。どの本も「勝手な」ことを言っているからだ。

 つまり、般若心経の「わかったようなわからないような」教えを、それぞれの著者が自分に引き寄せて「自分はこう解釈する」と説明しているだけであり、解釈のしかたもまちまちで、そもそもお釈迦さまの教えや般若心経を書いた人の考えとそれが合致しているのかどうかも怪しい。

 要するに百人いれば百通りの般若心経の解釈があるのだろうという結論になり、「少しだけ」腑に落ちた。もちろん般若心経の核となる教えは不動のはずで、それをどう現実社会にマッピングするかが、解釈する人によって違うということである。

 では般若心経の核となる教えとは何か? 僕もそれをおぼろげながらつかんでいると思ってはいるのだが、ここで言葉に表して説明するのは手に余る。でも、悔しいからちょっとだけ言っておくと、要するに般若心経の冒頭にあるこのふたつの文句だ(こんなこと誰にでも言えると思うけど)。

「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄」(観音菩薩さまが奥深い般若波羅蜜多を行われたとき、世の中のすべてのもの、物質的・精神的現象のすべてが実体のないものであると見抜き、一切の苦悩から解放された)

「色不異空 空不異色」(世の中にあるものはすべて実体などなく、母なる無の空間と一体になって存在している)

 これ以上はぼろが出るのでやめておこう。ま、要するにそういうことである(←どういうことだ!?)。そうそう、般若心経の最後に出てくる「ぎゃーてぇぎゃーてぇはーらーぎゃーてぇ・・・」という呪文(マントラ)が何よりも重要らしいということもわかってきた。

 さて、『般若心経絵本』である。作者は『モチモチの木』『えにかいたねこ』などで有名な絵本作家にして真言宗の僧侶、諸橋精光さん。何はともあれ、このわけのわからん世界を絵で表してしまおうという心意気に脱帽。なにしろ、絵に描いてしまうということは、般若心経の世界をイメージとして固定してしまうということなのだから、大胆不敵な話である。

 ここで結論を言ってしまえば、この本も結局般若心経に対する百人百色の解釈に、作者諸橋精光個人の解釈を加えたにすぎない。だから、当方としてはやっぱりしっくりこないが、菩薩さまやシャーリープトラ(舎利子)が無(ハンニャハラミツ)の大海に身を任せて陶然となっている姿など、般若心経の世界をやわらかく穏やかな絵で表されてみると、心へ沁みこむ力が他の本より強いようで、やっぱり絵の力はすごいなと思ったりもする。何よりも他書にくらべて押しつけがましくなく、「こういう考えかたもあるんだよ」と言っているようなところが好感が持てる。

 というわけで般若心経の解説本としてはイチオシとしておく。そうそう、ほんわかとして物足りないところもあるので、もう少し掘り下げた解釈を知りたいという方には、学研のBooks Esotericaシリーズの『般若心経の本』が他書よりも比較的客観的なので、お勧めしておく。

孫を預かる

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熱い男たちの物語~『東天の獅子 天の巻・嘉納流柔術』



 明治期を舞台に嘉納治五郎とその弟子たちを主人公に据えた痛快面白小説。姿三四郎のモデルになった西郷四郎ほか四天王も出てくる。

 柔術が柔道となっていくサクセスストーリーとしても読めるし、熱血格闘技小説としても読めるし、治五郎を中心とした青春群像小説としても読める。出てくる柔術家たちがみな男気にあふれる熱いやつらばかりで、読んでいるこちらも熱くなってくる。

 もちろん格闘シーンもふんだんだ。マンネリで退屈になりがちな格闘シーンをあれだけビビッドに描ける作者の技量にはうならされる。そして何よりも4巻というそれなりの分量を飽きさせずに読ませる力には感服。

 私がひいきにしている勝海舟が重要な役どころで出てくるのもポイントが高い。おススメ。
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