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じっちゃん

Author:じっちゃん
翻訳家。
もとコンピュータ技術者。二足の草鞋で翻訳を始め、定年後フリーランサーに。
【趣味】
①読書:ミステリを中心に時代・歴史小説、歴史や科学などのノンフィクション
②四国遍路(2015年11月結願)
③街道歩き(現在敢行中)
④SNS(ブログ、Facebook、Line)
⑤観劇
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鴎外の母に脱帽~『日本文壇史』(第3巻)より



伊藤整の『日本文壇史』を読んでいる。明治大正期の日本文壇の歴史を描くもので、全23巻という大著だ。

現在第3巻の途中、明治29年(1896年)の初夏に差し掛かったところ。鴎外は評論と翻訳ですでに名を成し(小説はまだ書いていない)、漱石はデビュー前。鴎外、紅葉、露伴が文壇の大家となっており、逍遥はもはや舞台から消え、四迷は『浮雲』で華々しくデビューした後潜伏し、透谷はすでに命を絶っている。一葉が『たけくらべ』等で大評判を取ったばかりだが、すでに病を得ている。子規も俳句で名を成しているが、肺病を得て寝込む寸前。鏡花、独歩、花袋はまだまだ駆け出し、藤村のデビューはこれからだ。

現代日本文学の黎明期を舞台にした青春群像劇のようで(実際そうだ)実に面白く、登場人物の苦悩や喜び、怒りが生き生きと伝わってきて胸が熱くなる。伊藤整の筆致はほとんど感情を交えず、事実を淡々と述べているだけのような客観的で冷めたスタイルだが、内容が熱いだけに、かえってそれが心地よい。

前置きが長くなってしまった。実はこの記事を書いた動機は、第3巻に乗っていた森鴎外の母親のエピソードに感動し、そのことを書きたかったからだ。

森鴎外(本名林太郎)が幼い頃、父の静男は医者修行中で、家にほとんどいなかった。そのこともあって、林太郎の教育は母親の峰子の手に委ねられた。ところが峰子は教育を受けておらず、天才肌の息子を教えるため、彼女は徹夜してまで勉強し、文字を覚え、さらには漢籍まで読めるようになった。後には鴎外の作品に意見を言ったり、校正やふりがなつけをするまでになったと言う。
天才鴎外の陰にこの母あり。昨晩このくだりを読んでいて頭にガツンと食らった気がした。人生いくつになっても勉強である。自分も負けてはいられない。

そうそう、この名作がいまは絶版で、中古でしか手に入らない。ちょっと残念である。
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資本主義経済の将来について考えさせられた~『入門経済思想史 世俗の思想家たち』



 以前から経済学には関心があってけっこういろいろ読んでいる。しかし、経済学の発展の歴史についてまとまったものを読んだのは今回が初めてである。

 本書はアダム・スミス、リカード、マルクス、ヴェブレン、ケインズ、シュンペンタ―といった偉大な経済学者の小伝とその理論、その背景にある時代の状況をコンパクトにまとめたものである。コンパクトと言っても文庫本で500ページ以上あるが、著者の語り口が巧みなせいで、最初から最後まで(一応)飽きることなく読み通すことができた。

 今一応と書いたのにはわけがあって、アダム・スミスからマルクスまでは話もよくわかり面白く(いささか興奮状態で)読めたのだがが、それ以降ケインズ、シュンペンタ―のあたりは少しだけしんどくなってしまったのだ。理論が難しくなったこともあるが、それに加えて、作者が面白く読ませようとするあまり、レトリックやストーリーの組み立てを工夫しすぎて、ストレートに話せばわかりやすいものをかえってややこしくしてしまっている嫌いもある。

 この本を読むと経済学の歴史は、資本主義経済(=市場経済)の出現とともに始まり、発展したことがよくわかる。

 その資本主義経済の破たんと共産主義経済の出現を予言したのはマルクスだが、今のところ彼の予言は外れた形になっているが、完全に無効になったわけではない。

 近代経済学は景気循環が起こるメカニズムを解明しようと躍起になってきたが、いまだに好不況の波が激しいことを見ると、まだ答えを見つけ出せないでいることは明白である。全員が全員好況を望んでいると言っていい状況でなぜ不況が発生してしまうのか? それすらわかっていないのだ。それに、そもそも資本主義経済には安定均衡というものがなく、際限なく成長し続けなければならない(その理由について本書に一応の答えが用意されている)。今は技術革新があるからいいが、それがいつまで続くかもわからない。

 景気循環のメカニズムを解明できないうちに、その波が悪いほうに大きく振れて資本主義経済が破たんするということだってないともかぎらないのだ。

・・・とまあ、最後はそんなこと考えてしまった。

 なお、本書はケインズ以降はシュンペンタ―を取りあげているだけで、ケインズ以降の現代経済学については多く触れられていない。そこに若干の物足りなさを感じた。

英米文学翻訳者必須の知識に挑む~『はじめて読む聖書』



 英米文学には聖書の引用や、聖書の話を下敷きにしたエピソードが頻出する。英米文学を読んでいて、聖書の話が一度も出てこなかったら、かえって珍しいくらいである。となると、英米文学を翻訳するものにとって聖書の知識は必須と言ってよい。

 私も英米文学(※)の翻訳者の端くれとして、聖書の勉強はそれなりにしている。しかし、まだまだ知識不足だと感じているし、それよりも何よりも、最近聖書という稀有な書物に対する知的好奇心が抑えきれないくらい高まってきていて、聖書関連の本をかなり読みはじめている。

※ と言っても、自己啓発書を中心とするノンフィクションだが。

 その一環として手に取ったのがこの本。

 タイトルからして聖書の入門書的なものを期待していたのだが、読んでみてちょっと肩透かしをくらった。冒頭の「聖書ってどんな本?」と最後の「聖書を読むための本」こそ入門書っぽいものの、その間に来る7編は入門書を意図した記述と言うより、聖書をテーマにしたエッセー集(プラス対談)の感。

 冒頭の「聖書ってどんな本?」も、聖書を紹介するには15ページと短すぎるし、そのうちの訳半分を聖書和訳の歴史に当てているのもバランスが悪い。最後の「聖書を読むための本」で紹介される参考文献も聖書入門者には高級すぎてついていけない。

 かくして聖書入門書としては期待はずれだが、エッセー集としては、池澤夏樹や橋下治、吉本隆明など豪華執筆陣がそれぞれの聖書観を語ってくれて、面白く読める。

 何と言っても白眉は、新約聖書学者としてつとに有名な田川健三氏の対談。約70ページと本書のほぼ3分の1を占めることからも、これが本書の中心であることがわかる。

 田川氏はれっきとしたクリスチャンだが「神は存在しない」と言い切ってしまう人で(この対談のなかでもそう言っている)、日本のキリスト教界では異端の存在。だから、日本の神学会では身の置きどころがなく、ドイツのゲッティンゲン大学、アフリカのザイール国立大学、フランスのストラスブール大学などで教鞭を取ったという経歴の持ち主(※)。


※ 一時期国際基督教大学で教鞭を取っていたが、その思想がわざわいして追放されてしまう。その経緯もここに書かれている。


 しかし、田川氏が「神はいない」と主張する論拠は(キリスト教徒でない者には)しごく真っ当に思える。田川氏の主張は「神はいない」というよりも、「(聖書が描くような)人間が作りあげた神はいない」というものである。人間がイメージできるくらいならそれは神ではないと言っているのである。では「神」はいるのか、いないのか? 田川氏は「それはわからない」と言う。いるかもしれないし、いないかもしれない。だから、田川氏は無神論者と言うよりも不可知論者と言ったほうがよい(ご本人もそうおっしゃっている)。

 これを含め、この対談は括目すべき内容に満ちていてスリリングである。たとえば。

 田川氏がザイール国立大学で教鞭を取っていたとき、授業であのシュヴァイツァーに言及したとたん、学生たちから「帝国主義者!」という声(ブーイング)があがったという。シュヴァイツァーはアフリカに病院を作って多くのアフリカ人を救ったということでノーベル平和賞をもらっているが、実は非常に人種差別主義者であり、アフリカの人を見下した言動が多かったという。そればかりでなく、患者を使った人体実験まがいの手術も数多く行った。それを現地の人は今でも恨みに思っていて、反発するのである。

 田川氏の宗教と向かいあう姿勢はきわめて真摯である。建前を捨てて本音でキリスト教にぶつかるからこそ、信仰ありきで聖書を研究する旧来の学者から見れば煙たい存在なのだろう。

 田川氏には前から注目していたが、この対談を読んでますます興味を持った。氏には、信者とそうでない者を問わず、新約聖書に関心ある者を対象とした解説書『書物としての新約聖書』、真のキリスト像を描いたとして(いろいろな意味で)話題になった『イエスという男』という著書がある。いずれも大部なのでいっぺんには読めないが、手に入れて読んでみようと思う。

般若心経がなんと絵本に!~『般若心経絵本』



 昨年めでたく結願した四国遍路では各札所で般若心経を2回ずつ詠む。必然的に般若心経に関心を持つようになった。

 キリスト教やイスラム教の信者でもなく、ただそれらの解説本を読んだだけのぼくがこう言うのもなんだが、三大宗教のなかで仏教がいちばん奥深いように思う。少なくとも、教えを最も徹底して深いところまで掘り下げているのが仏教だと思う。

 その奥深い仏教の教えの神髄を262文字に凝縮したのが般若心経だと言われるだけあって、ごく短い経文なのにとても深遠で(と僕は感じる)、とても難しい。何度詠んでもわかったようなわからないような気になる。

 だから自然の流れとして解説本をひもとくことになる。これまでにいろいろな著者の解説本を読んだ。松原泰道・哲明親子のもの、仏教僧にして芥川賞作家の玄侑宗久のもの、瀬戸内寂聴のもの、学研のBooks Esotericaシリーズの一書など。

  しかし、どれを読んでも、どうもしっくりこないし、「ああそうなのか」と膝を打つ瞬間がこない。解説本何冊か読んでいるうちにその理由がわかった。どの本も「勝手な」ことを言っているからだ。

 つまり、般若心経の「わかったようなわからないような」教えを、それぞれの著者が自分に引き寄せて「自分はこう解釈する」と説明しているだけであり、解釈のしかたもまちまちで、そもそもお釈迦さまの教えや般若心経を書いた人の考えとそれが合致しているのかどうかも怪しい。

 要するに百人いれば百通りの般若心経の解釈があるのだろうという結論になり、「少しだけ」腑に落ちた。もちろん般若心経の核となる教えは不動のはずで、それをどう現実社会にマッピングするかが、解釈する人によって違うということである。

 では般若心経の核となる教えとは何か? 僕もそれをおぼろげながらつかんでいると思ってはいるのだが、ここで言葉に表して説明するのは手に余る。でも、悔しいからちょっとだけ言っておくと、要するに般若心経の冒頭にあるこのふたつの文句だ(こんなこと誰にでも言えると思うけど)。

「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄」(観音菩薩さまが奥深い般若波羅蜜多を行われたとき、世の中のすべてのもの、物質的・精神的現象のすべてが実体のないものであると見抜き、一切の苦悩から解放された)

「色不異空 空不異色」(世の中にあるものはすべて実体などなく、母なる無の空間と一体になって存在している)

 これ以上はぼろが出るのでやめておこう。ま、要するにそういうことである(←どういうことだ!?)。そうそう、般若心経の最後に出てくる「ぎゃーてぇぎゃーてぇはーらーぎゃーてぇ・・・」という呪文(マントラ)が何よりも重要らしいということもわかってきた。

 さて、『般若心経絵本』である。作者は『モチモチの木』『えにかいたねこ』などで有名な絵本作家にして真言宗の僧侶、諸橋精光さん。何はともあれ、このわけのわからん世界を絵で表してしまおうという心意気に脱帽。なにしろ、絵に描いてしまうということは、般若心経の世界をイメージとして固定してしまうということなのだから、大胆不敵な話である。

 ここで結論を言ってしまえば、この本も結局般若心経に対する百人百色の解釈に、作者諸橋精光個人の解釈を加えたにすぎない。だから、当方としてはやっぱりしっくりこないが、菩薩さまやシャーリープトラ(舎利子)が無(ハンニャハラミツ)の大海に身を任せて陶然となっている姿など、般若心経の世界をやわらかく穏やかな絵で表されてみると、心へ沁みこむ力が他の本より強いようで、やっぱり絵の力はすごいなと思ったりもする。何よりも他書にくらべて押しつけがましくなく、「こういう考えかたもあるんだよ」と言っているようなところが好感が持てる。

 というわけで般若心経の解説本としてはイチオシとしておく。そうそう、ほんわかとして物足りないところもあるので、もう少し掘り下げた解釈を知りたいという方には、学研のBooks Esotericaシリーズの『般若心経の本』が他書よりも比較的客観的なので、お勧めしておく。

熱い男たちの物語~『東天の獅子 天の巻・嘉納流柔術』



 明治期を舞台に嘉納治五郎とその弟子たちを主人公に据えた痛快面白小説。姿三四郎のモデルになった西郷四郎ほか四天王も出てくる。

 柔術が柔道となっていくサクセスストーリーとしても読めるし、熱血格闘技小説としても読めるし、治五郎を中心とした青春群像小説としても読める。出てくる柔術家たちがみな男気にあふれる熱いやつらばかりで、読んでいるこちらも熱くなってくる。

 もちろん格闘シーンもふんだんだ。マンネリで退屈になりがちな格闘シーンをあれだけビビッドに描ける作者の技量にはうならされる。そして何よりも4巻というそれなりの分量を飽きさせずに読ませる力には感服。

 私がひいきにしている勝海舟が重要な役どころで出てくるのもポイントが高い。おススメ。

人生の知恵が詰まっている・・・かな?~『ラ・ロシュフコー箴言集』



 名著中の名著である。岩波文庫版の表紙にも「フランス・モラリスト文学の最高峰」という最大の賛辞が書かれている。

 人生の指針のようなものが得られるのではないか、あるいは何かの折に「ロシュフコーはこう言っている・・・・・・」など言って箴言のなかから気の利いた言葉を引用したらカッコイイのではないか、そんな思惑で読みはじめた。

 確かに、気の利いた言葉もある。たとえば……

「われわれは希望に従って約束し、怖気に従って約束を果たす」
「人間は何かに動かされているときでも自分で動いていると思うことが多い」
「人は決して自分で思うほど幸福でも不幸でもない」
「ほんとうの恋は幽霊と同じで、誰もがその話をするが見た人はほとんどいない」
「誰も彼もが自分の記憶力を慨嘆し、誰一人として自分の判断力を慨嘆しない」

「なるほど」と思う(特に最後のやつはいい)。しかし、それ以上でも以下でもない。感心するというほどでもなければ、心に沁みてくるわけでもない。しかも、この「なるほど」というレベルでも10にひとつくらいの確率である。

 その逆に出来の悪いものならたくさんある。そんなの言われなくてもわかってるよとか、だから何?とか、意味わかんないというレベルのものが。例をあげよう。

「どうやらわれわれの行為には吉、凶の星がついていて、人がわれわれの行為に寄せる称賛や非難の大部分は、その星のおかげであるらしい」
「女を愛せば愛すほど憎むのと紙一重になる」
「誉める非難があり、くさす賛辞がある」
「偉大な素質を持つだけでは充分でない。それを活かす術が必要である」
「人が恋について話すのを聞かなかったら、決して恋などしなかっただろうと思われる連中がいる」
「われわれの改悛は、犯した罪に対する悔であるよりも、むしろその悪の報いとして身に及ぶかもしれない悪に対する恐れである」
「大部分の人は羽振りや地位によってしか人間を判断しない」

 これくらいでいいだろう。読むほうの理解力、洞察力が不足しているのかもしれないが、こういうのがずらっと続くと、読み続けるのがつらくなってしまう。というわけで、500余ある(本編のみ)箴言のうち230ほど読んだところで読むのをやめてしまった。

 これが「フランス・モラリスト文学の最高峰」というのなら、フランスも大したことない。わが国の「徒然草」あたりのほうがはるかに上だ……と憎まれ口をきいておく。

風太郎節を満喫~『白波五人帖』



 天下の大盗賊日本左衛門(歌舞伎では日本駄右衛門)ほか白波五人男それぞれが主役を演ずる5つの短編からなる連作短編集。久々の山田風太郎だが、風太郎節を大いに満喫できた。

 お話しは日本左衛門が京都町奉行所に自首してくるところから始まる。お上が手を焼いていた日本左衛門がなぜ自から自首してきたのか・・・物語はその謎を中心に展開する。その謎に宝暦治水事件(※)が絡んで、物語は驚天動地の展開を見せる。

※ 江戸時代中期に起きた事件。幕命によって施工された木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水事業(宝暦治水)の過程で、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老平田靱負も自害した。(Wikipediaより)

 日本左衛門が京都町奉行所に自首したのは史実だが、それに宝暦治水事件が絡むというのはまったくの虚構。日本左衛門は延享4年(1747年)に死んでいるが、宝暦治水事件が起きたのは宝暦4年(1754年)だからだ。このように、山田風太郎は史実と虚構を織り合わせ、想像の翼を思い切り広げて、超オモシロ物語に仕上げている。それは他の4作も同様だ。それにしても、よくもまあこんなことを考えつくものだ。作者の想像力には、毎度のことながら、感嘆を通り越して呆れてしまう。

 エログロが特徴でもある風太郎作品だが、エロの部分は抑え気味なものの、グロなシーンはそれなりにあるので、そういうのが嫌いな向きは要注意。そんななかで、男女の純愛あり、夫婦愛あり、兄弟愛あり、友情あり、忠義ありで、ほろりとさせるシーンもあって、読ませる読ませる。ああ、やっぱり、風太郎は天才だ。

関所が生む波乱万丈の物語~『水鳥の関』



 本作の舞台は東海道は新居の宿。と書くと、ははんと思われる方もおられるかもしれないが、そのとおり。先だって東海道歩きで新居宿を通過するのにあやかって、旅先で読む本としてチョイスしたもの。

 内容に触れる前に、そのときの失敗談をひとつ。

 本書は上下2巻の構成なのだが、荷物が増えるのを嫌って(※)上巻だけを持っていった。ところが、往きの車中で読み出したら、面白いのなんの、ページを繰る手が止まらなくなり、その日のうちに読み終わってしまった。

※ 歩き旅では荷物の重さを極限まで減らすのが重要。グラム単位とまでは言わないまでも、数10グラム単位で荷物を調整する。文庫本は1冊200グラムくらいあるからねえ。

 下巻は旅先で買えばよいと思っていたのだが、宿泊先の藤枝ではどの書店に行ってもこの本を置いていない。それもそのはず、後からわかったことだが、これだけの傑作がなんと絶版になっており、古書でしか手に入らない状態になっていたのだ。結局下巻を入手し読むことができたのは東京に帰ってからだった。

 さて前置きはこれくらいにして肝心の中身の話に入ろう。

 主人公は新居宿の本陣の娘。娘と言っても、一度吉田藩の家臣である侍の家に嫁ぎ、夫と死別後実家に戻ってきた出戻りである。

 死別した夫との間には男の子があるが、婚家から会うことを禁じられている。唯一の救いは、夫の弟が何くれとなく気づかってくれ、いつか息子に合わせると約束してくれていること。やがて、その義弟が約束を果たす日が来る。渋る両親を説得して、主人公を家へと招き、息子との対面を実現してくれたのだ。そして、そこから物語は怒涛の展開へと突入する。

 その展開のなかで重要な役割を果たすのが、ほかでもない新居の関。関所を通るには通行手形が必要だが、その手形はおいそれとは出ないし、出るにしても時間がかかる。そのことが主人公の運命を大きく左右することになる。

 燃えるような恋あり、純愛あり、三角関係(それも二重の)あり、はらはらどきどきのサスペンスあり、謎あり、復讐劇あり、陰謀あり、人情劇あり、感動ありで、もうてんこ盛り。解説によれば、著者の平岩弓枝は希代のストーリーテラーとして定評があるらしいが、その実力が本書でもいかんなく発揮されている。

 ひとつ難があるとすれば、物語を作りすぎていること。偶然の巡りあわせが多すぎるし、ここぞというときに正義の味方がタイミングよく現れる。しかし、文章に品があってリアリスティックなので、読者の感じる不自然さは最小限に抑えられる。それよりも何よりも物語が面白いので、あまり気にならない。

 もうひとつの魅力は、宿場の本陣というもののありようが丁寧に描かれていること。大名がどのようにして本陣を確保するか、本陣の人たちは大名をどのように迎えどのように送り出すか、献立はどのように考えどのように整えるのか、天候が荒れて渡し場が閉鎖されたときはどう対応するのか、本陣以外の旅籠との関係はどうかなどが、その目でみたかのようにありありと活写される。

 そして何よりもかによりも、運命に翻弄される娘を優しく見守る父親の姿に心を打たれた。何があっても娘を信頼し、支え、ときには導き、ときには諭す姿がもう素敵すぎる。自分もこんな父親になれればと思うが、まあそれはないものねだりでしょうな。

 最後に向かって広げた風呂敷が畳まれていき、すべてがしかるべきところに収まるとともに、『水鳥の関』というタイトルの意味がわかる結末も見事だ。

 平岩弓枝のほかの作品も読みたくなった。

読書への愛に満ちた傑作ギャグ漫画~『バーナード嬢曰く。②』



 ぼくが今いちばんはまっている漫画。その第2巻を読んだ。

 学校の図書室を舞台に、読書を、読書だけをネタにしたギャグ漫画。そんなの、世界広しといえども、この作品だけだろう。

「バーナード嬢」というのは、この作品の主人公の町田さわ子のこと。バーナード・ショーに憧れて、周囲にそう呼ぶことを求めている。本をたいして読みもしないのに、周囲から熱心な読者家でインテリから見られようとして、あの手この手を考える。それを本物の読書家の友人たちがツッコむ、ないしは呆れるというのがストーリーの骨子。

 ツッコミ役の友人は、いかにも優等生という遠藤君、その遠藤君にひそかに憧れる図書委員の長谷川さん、SFオタクの神林しおりの3人。登場人物は町田さわ子を含めてこの4人だけである。この4人の性格造形が素晴らしいのがこの作品の成功の最大の要因のひとつ。なかでもいいのは、しったかぶりでいい加減で、いつも読んだことのない本を読んだことにする言い訳ばかりを考えていて、それでいてときには正論を吐く読書スノッブの町田さわ子と、一見クールに見えながら、読書やSFについて語り出したら止まらなくなる熱い読書家の神林しおり。

 この4人が繰り広げる本や読書に関する会話は、読書に関するあるあるネタも満載で、それだけでも読書家は楽しめるし、町田さわ子をボケ、他の3人をツッコミにしたギャグのキレもよい。

 ここで本書の面白さをわかっていただくためにギャグの具体例を提示しようと思ったが、この本の一部だけを切り出しても、この本の魅力は伝えられないことに気づいた。だから、少しでも興味を覚えた方はぜひ手に取って読んでいただきたいと言うしかない。書物や読書に関するあるあるネタも満載で、本好きの方にはきっと楽しめるはずである。

 ぼく自身、この本は「近来稀に見る傑作」であり、この本に出会えたことを幸せに思っている。

聖徳太子は実在しなかった?!~『天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト』



 驚くべき書物である。

 いきなり、聖徳太子は実在しなかったという。それだけでも驚きだが、太子が摂政を務めたはずの推古天皇も実在しなかったという。ならばその当時の本当の天皇は誰だったのか?--それは蘇我馬子である……と来る。

 著者に言わせると、そもそも天皇は万世一系ではなく、飛鳥時代までは複数の王権があって、交代で大王を務めていた。そのひとつが馬子、蝦夷、入鹿と続く蘇我氏だった。万世一系の天皇像が作られたのは乙巳の変(大化の改新)以降である。そしてその作業の中心となったのが藤原不比等であり、その仕掛けとして作られたのが『日本書紀』である。『日本書紀』によって聖徳太子がねつ造され、天孫降臨・万世一系の神話が作られたのである。

・・・・・・本書の主旨を要約すればそうなる(※1)。まことに驚くべき内容であり、にわかには信じがたい。

※1 「たかが読書感想文でネタばらしするんじゃない!」とお怒りになる方もおられるかもしれないが、その批判は早計である。以上のことは本書の序文(「はじめに」)にすべて書かれているからである。

 ぼくも本書を読みはじめた当初(「聖徳太子は実在しなかった」のくだり)は、眉がびっしょり濡れるくらい眉に唾をつけながら読んだ。そして根拠の弱さにうんざりして、何度か投げ出しそうになったほどだ。しかし、我慢して読み進めていくうちに、「ん?!」「え!?」「おっ!」「おおっ!!」「おおおっ!!!」となって信頼度が増していき、全体像が見える頃にはすっかり信じていた。

 かならずしも個々の説については論拠が強いわけではない。せいぜい「こうであったとしても説明はつく」程度である。ところがそれらの説が集まって全体としてひとつの像が描かれたとたん、「あっ、そうだったのか!」とうなずかされることになる。まるでパズルの断片が集まって、最後に美しい1枚の絵ができるように。

 ともかくも、この全体像は見事としかいいようがない。その絵を見ていると、日本古代史の真相はそれしかないとさえ思えてくる。それにともなって、以前から日本史に対して漠然といだいていたいくつかの謎が鮮やかに解かれて、実にすっきりした気分になる。

 なぜ、天皇はあんなに古い昔から揺るぎない権威を持っていたのか? なぜ天皇は中世にいたって権威だけあって権力のない存在に祭り上げられてしまったのか? 万世一系中断の危機を救った継体天皇の登場が意味するものは? 歴史上唯一の天皇暗殺・崇峻暗殺事件はなぜ起きたのか、真犯人は誰なのか?聖徳太子はなぜ天皇に即位しなかったのか? etc.etc.

 特に壬申の乱のいくつかの謎が次々と解かれていくのは、最強の天皇のひとりと言われている天武が無能だったというあたりを含めて痛快だった。

 ぼくは歴史家でないので、個々の論証について是非を言える立場にないが、くりかえすように、全体像を見るかぎり、日本古代史のあり方としてそれ以外ないように見えてくる。この書に対してしっかりと反論する書物はまだ出ていないようだが、そう言う書物や、あるいは本書を補強する書物が出てきたら、ぜひ読み合わせて理解を深めたいところである。

 歴史好きの方--特に古代史好きの方には一読をお薦めする。
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