以前
コミック版の『夜回り先生』(土田世紀)についての記事を書きましたが、その後「夜回り先生」についてもっと知りたいという気持ちが強くなり、「夜回り先生」自らが書かれた原作の方を読んでみました。
読んでみて、水谷先生はやっぱり立派な方だなという思いを新たにしました。見も知らぬ少年少女を暴走族や暴力団から身体を張って守り。虐待する親から引き離して施設にいれ、就職を世話し。世話になった先生を裏切る子供を大きな愛で許し。救いの手を拒否する少年を根気よく説得し、根気よく話を聞き。福祉制度もよく知らぬ少年のために生活保護の手続きをしてあげ。
どれひとつとっても私にはまねのできないことばかりです。頭が下がります。水谷先生のおかげで救われた少年少女は少なくないといわれます。現にブログめぐりをしていると、水谷先生に救われたと先生を神様のように思っておられる方がいたりします(※)。
※そもそもコミック版『夜回り先生』を読もうと思ったのも、そうしたブログを読んだことがきっかけでした。
でも(改めて、イヤなヤツだな、俺って)、読み物としてこの本を見てみると、欠陥が目立ちます。
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まず、ひとりの少年少女の物語に割く紙幅が少なすぎます。全部で200ページ弱の中に24のお話が詰め込まれています。ひとりあたり平均約8ページです。しかも、写真は多いし、字は大きい。どうしたって書き込み不足になります。少年や少女がなぜそういう非行に走ったのか、その背景も、水谷先生の救いの手によってどのように立ち直ったのか、その経緯も理由も、細かいところがよくわからず、読んでいてもどかしく思われます。そういう枝葉はあえて切り落としたのかも知れませんが、読者としてはそういう枝葉を知りたいのです。そういう細部が書き込まれていないため、言い過ぎをあえて承知で言うならば、彼らが簡単に非行に走り、そしてあっさりと立ち直ったようにしか見えないのです。
次に。水谷先生はとても文章がお上手です。それは欠陥じゃないだろうと思われるでしょうが、そのお上手な、抒情的ともいえる文章が内容にそぐわないのです。より正確に言うならば、この本をノンフィクションと捉える私がノンフィクションに期待する文章とは違うのです。この本を読んでいるとノンフィクションというより、リリカルな小説ないしは詩を読んでいるような気がしてきます。ノンフィクションとしての透徹した目、リアリズムを追及する意志が感じられないのです。もっともこのスタイルは著者が意図的に狙ったものなのかもしれません。ならば、私の期待するものと著者の狙いとが違うというに過ぎないのでしょう。
土田世紀さんのコミック『夜回り先生』に感じた違和感は結局、この原作そのものが持っている特質だったということになります。
結局、水谷先生は立派な方だが、その水谷先生が書いた著書は面白くないというのが結論です。誰か水谷先生以外のノンフィクション・ライターが書いた「夜回り先生」を読んでみたいものです。
【じっちゃんの評価:★】
P.S.以上のような理由でこの記事の分類は"Nonfiction"ではなく"Essay"としました。